近くなったもの/遠ざかったもの

2014.05.21 Wednesday

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    SANPO

    SANPO_2

    Parallel

    SASORI(SCORPIONS)

    (巨大な生き物が空に浮かぶ)


     

    4年前に初めて訪れたときは「ずいぶん遠い場所」だった。

    山小屋の豆炭のこたつに暖をとり、きれいに晴れた夜の天の川に狂喜したのを覚えている。

    ちょうど2年前にも、まったく同じ道を歩き、今度はテントの薄い幕を張って眠った。

    今またその山を訪れる。

    その道も山の頂きも、今はあらゆる意味でとても「近くなった」と感じている。

    通い慣れた道だからこそ、そこを歩くじぶん自身が4年間にどう変化したかを知り、少し驚く。

    あるものはとても近くなった反面、遠ざかったものもたくさん。

    名残惜しいものも、すっきりせいせいしたものも、たくさん。
     

    たぶん次の4年後にはもっと変化しているんだろうなあ、いやそれどころか1年後ですらわからない。

    本当にどう転ぶのか、まったく予想がつきません。

    ともあれ、どちらに転んでも美しい見事な景色が待っている。

    そういう人生にしたいもんです。

    ガンガン転がっちゃえ。





     


     

    所信表明(まあるい石)

    2014.04.30 Wednesday

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      TKOL

       

      1月末の試験に合格し、気象予報士の資格を得ました。

      明らかにぼく1人の力では為し得なかったことです。

      色んな人から教わり、支えて頂いた。

      そして試験当日は、まるでそれらへの恩返しのために用意されたような1日でした。

      とても幸せな1年間を過ごせました。

      感謝でいっぱいなのですが、

      それにかえて、所信表明として残しておきたいと思います。

      ================================




      「じぶんにとっての気象とは、タシャと生きることそのものの象徴となりました。」


       

      気象学の中に出てくるたくさんの理論や式を見出した先駆者たちとの対話。

      気象学から得られる智慧を体現し、教えてくださる人たちとの対話。

      現実に予報士として生きる何人かの人たちとの対話。

      支えてくれる友人・知人たちとの対話。

      そして何より、風や雲との対話。

      その中でぼくはどんどんじぶんのカドを削り、

      まあるい石のようにならなければいけないのだと思うようになりました。

      物事を跳ね返したりねじ伏せるのではなく、

      まあるい石のようになって、あまねく風やあまねく雨を受け止め、あるいは受け流すこと。

      耳をピンと張り、目を大きく開き、入り口を広く持つこと。

      それがいちばん大きい力を生むのだということです。

      1人の力量ではなく、その背景にたくさんのタシャがいるからこそ、大きい力が生まれるということです。

      このことは、意外にもぼくにとっては新しい発見でした(多くの人にとっては当たり前のことなのかもしれませんが)。
      そして、いつの間にか気象を学ぶということを通じて、

      ぼくはタシャを尊重し、タシャと生きるということを図らずも学んでいたのです。

      そんな当たり前の事実を少しでも忘れた瞬間、

      途端に予報士としての(あるいは人間としての)最も重要な能力を失うことになるでしょう。

      これからぼくは、じぶんを延々と削る作業に人生を費やすのだと思います。

      どんどん削って、まあるい石に少しでも近づきたい。

      あるいは試験には合格しても、この所信を確かに実践してゆくことは、

      一生をかけた宿題・じぶんに課せられた本当の予報士試験なのかもしれません。


      なあんてね。



       

      (2ヶ月遅れの所信表明、雨脚の強まる夜に。)




       

      腹ペコの重石

      2013.12.09 Monday

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        Oku.C
        赤岳より、奥秩父。

        cirrus
        巻雲。こういう形のものは天候が崩れるときに現れやすい。

        Mt.Amida

        O_ne

        O_ne2

        Suretigau
        すれ違う人。



        (屋久島よりおよそ2週間前のある日。八ヶ岳。)

        腹ペコの重石だった。

        ずっと腹ペコで、でもあれこれ足かせが多くて、
        しまいにはじぶん自身が重石のようになってしまって、じぶんを動けなくさせてしまった。

        そうしてここまで来るのに、10ヶ月もかかってしまった。
         

        山道を歩く。適切な幕営箇所へ至る。

        大きな土と岩の懐のなかで、薄い幕1つを張って眠る。

        夜には星が姿を現す。ちょっと起きて、テントからひょっこり顔だけ出してそれを眺める。

        (土くれから生まれた人間は、土くれの匂いの中で横になるのがよい。)

        朝には偉大すぎる太陽が昇る。闇が剥ぎ取られて白む。目覚めのスープを1杯。空の雲をときどき観察し適切に判断を下す。また歩き始める。

        たったそれだけのことをするのに、こんなにも遠かった。ほとんど1年ぶり。
         

        びっくりするぐらい腹ペコの重石だった。

        だからいま全身が、根っこ。あらゆる箇所のあらゆる神経があらゆる方法で辺りのものを「吸い上げ」て、

        養分にかえて、少しでも腹具合をなんとかしようとしている。

        人間スポンジ。天地のすべて、ぜんぶよこせ?いや違うな、そんなに傲慢でもない。

        欲しがるけれども、いちおう、ヒィヒィ言いながらもちゃんとじぶんから赴くでしょ?

        ともかく、スポンジそのもの。

        それにしても、吸い取るほど軽くなる不思議な生き物。

        もちろん、山頂では雲を見て天気のお勉強。たっぷり1時間滞在。

        この2つの目ん玉は一瞬の変化も見逃さないようにと、ぐるんぐるん動く。

        風は感じ聴くのではなく、見るものと知った。そしてたまに予言めいた形を空に描き出す。

        だから、いくつもの兆候を見つけ見分ける力を身につけるのだ。

        2足歩行エンジンに新たに1対のギョロッとした観察眼が加わった。

        こうなるとなおいっそう、山歩きはオモシロイ。

        それにしてもここ最近、山へと向かうその一歩にずいぶん緊張感が欠けている。

        でも沸き上がりすぎることもなく、淡々としていてよい。

        見たいものを定めじっさいに見る力。

        それは一瞬で燃え尽きてしまうような大きな興奮ではなく、

        静かで小さな集中の連続の中にこそ立ち現れる。はず。



         



         

        屋久島観察日記(夢を見る島ver.2)

        2013.11.21 Thursday

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          Yaku_B
          Yaku_B

          Mt.8(false)
          Mt.Yatsu(False)
          にせ八ヶ岳(命名者はじぶん)


          Yaku_A
          Yaku_A
          けものくさい子。


          Mt.Miya(FOG)
          Mt.Miya(FOG)


          Mt.Nagata
          Mt.Nagata
          もっこもこ


          Hodou
          Hodou
          あまり人の通らない道


           

          買い物のレシートをノートにペタペタ貼付けるように、

          いろいろ、こまごまとしたメモ。

          初日、まずは羽田から鹿児島までのフライト。定刻通りの離陸。機体が右に傾き旋回する。

          合わせて朝陽が機内を「一周」して照らす。

          手元の高度計を確かめる。2287mとある。きちんと更正していないが、機内はおよそ780hPaになっている。

          減圧しているように見えるが、実際には薄い鉄の壁を隔てて外はおよそ300hPa前後を飛行しているはずで、

          500hPa近く「加圧」していることになる。操縦室に入って加圧計のメーターを見てみたい。

          「犬が星見た」を取り出す。旅に出るときは必ずこの本を持ち歩き、少しずつ読むことにしている。

          いつも天山山脈の描写を読み返す。何度読んでも、このわずか十数行は本当にまばゆい。

          旅路の無二の親友、バイブルのような本。

          鹿児島から屋久島へは双発機のボンバルディアQ400に搭乗する。これは正解。

          だいたい3000m前後の低い高度を飛ぶから、そのあたりの雲と同じ高さになる。

          これが良かった。飛行機と地面と雲とじぶんとが親密さを保てる高度。

          大きい旅客機はあまり好きにはなれないけど、小さい飛行機ならば不便だがまあ楽しいこと。

          高速回転するプロペラや揚力を自在とするための主翼の内部構造なんかもよく観察できる。可動式の付け根。おっきなプラモデル。

          噴煙の桜島を上から眺める。島の線はくっきりきらきらとしている。海は百面体となって光を乱反射する。水面は風でしわしわに寄り縞模様になる。機織りの職人の見事な手さばきによる模様と、どちらがより精密?

          ときおりサーマルによる雲の中へ突っ込む。ちょっとした乱気流で揺れる。これもお勉強。

          わずか30分ばかりの絶景。息をかたっぱしから飲み込んでしまう。これじゃあ息がいくらあっても足りない。

          機内放送にあわせて動作込みでシートベルトの説明をするスチュワーデスは、どこかよくできた人形劇のよう。操り糸はどこにありますか?と探してみる。

          ウィルソン株。巨大な屋久杉を秀吉の時代に伐採し、それがいまでもこうして大きな切り株としてなお緑豊かに残っているらしい。
          根っこは1つの洞穴のようになっていて、以前岩手で27人を飲み込んだイグルーよりも大きい。
          中には透明なままの水が涌き出している。上を見ればこれもまた穴、樹の中から青空が見える不思議な光景。
          見る角度によってはハート型に見えるのだという。けっ。そんな風になんか見るもんか。若い女の子たちはオオヨロコビ。

          ウィルソン株を見ると、生命の根っこというのは下にだけではなく上にも伸びてゆくのだということがよくわかる。
          この島では、本当に、小さな苗木が瞬きをする間にザザザと頭上を生い茂ってゆくのだ。すべての芽は限りなく古く、また新しい。
          そして光が当たれば起き抜けのように大きな伸びをし、ついでにあくび1つでもしているんじゃないかしら。

          ここから縄文杉までのあたりは修学旅行生の大群。道は狭いのでいちいちすれ違うだけでも一苦労。

          歩く拡声器の群列のようにピーガー大きなおしゃべりが森にこだま。稼働電源は若さ。

          皆ひと言、ひとことが必死に背伸びの塊を吐き出しているようで、うざったくもあり面白くもある。

          2日目の夜、きれいに晴れたのでちょっと開けた場所で星空の観察。みんな小屋のウッドデッキに集まってわいわいしている。

          月もなく天頂をまっすぐ天の川が横切り、3つの星が意味ありげな三角形を作りだす。

          このトライアングルを見つけ出すのが、案外多くの人ができないらしい。名前はあるが、たぶん実際には意味は無い個々の星。トライアングル。
          今日見たたくさんの古木たちにも名前がつけられていた。でもニンゲンたちがニンゲンの都合でつけた名前にすぎない。
          偉大なスケールの事象は、意味を拒む。物事には事実はあるが、意味は無い。それがゆえに、解釈が生まれる。
          解釈するのは、ときに楽しく、ときに哀しく、そして自由で無限大。

          イビキをかきながら5分10分ほど寝てしまう。おやおや、しまった。

          シカの鳴く声は絶え間なく、島中の山でどこでも聴くことができる。

          あまりにも近い位置で何度も聴くものだから、ついにはヴァイオリンを弾きこするもののように錯覚してしまう。

          ヤクシカはおしなべて本州のものよりも体躯は少し小さい。ときどき思春期の少年少女のように見える。
          逃げるやつもいれば、堂々と草を食むやつもいる。写真のように大きい個体は色も黒くカッコイイ。

          4日間も山を歩けば少しは「ケモノ」になれるかなとも思ったが、大間違い。

          意外とニンゲンのまま。たぶん、同行者がいたから。のびのびと、屈託なく歩く。

          ただし最後の下山だけは別。

          地図のコースタイムがまったく当てにならないので(まったく、とんでもない!)、もののけの森をまさかのBダッシュ。
          しかも野性味溢れる荒れ道。同行者には多大な迷惑をかけることに。

          不細工になりながら、しかし集中力は極大に。飛び、跳ね、飲み干し、くぐり抜け、そして一気に下り降りる。2本足のケモノの証明。

          なんとか予定に間に合ったので、硫黄のぷんぷんする温泉に入り、バスに飛び乗る。

          帰りの便は、もう一度ボンバルディア。西日に照らされたミニチュアの田んぼに胸がいっぱい。

          鹿児島空港のロビーで遅めの昼食。同行者と2人で黒豚角煮弁当とビール。あっという間にたいらげる。

          鹿児島から東京へは、夜間飛行。太平洋側の光の海。とくに、関東平野。

          夜の宝石を地上に縛りつけたニンゲン。これはこれで、大したものと呼ぶべきだろう。






           

          屋久島観察日記(夢を見る島ver.1)

          2013.11.15 Friday

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            Mnnk04 Mnnk01 Mnnk02 Mnnk03


             

            9月の末。日本の南西にある島にて、夢を見た。

            屋久島についての、いくつかの所感。

            4日間、この不思議な島を歩き続けた。

            まずは、そして最後まで、森について息を飲むことになる。

            だから、はじめに森について書こう。

            「一歩のたびに驚くほど姿を変える。森という名の万華鏡、樹々の体をした万華鏡。
              苔をまとう幹は名作家の彫像みたい(でも、どんな美術館にもこんな名作は置いていない)。
              枝葉は根。緑色の血管が地上に浮き立っている。
              そして倒れた木からまた新しい芽がうやうやしく伸びる(植物は地面にだけでなく上へもその「根」を鷹揚に伸ばしているように見える)。」

            …うわぁ。なんておかたい脚色。表現を尽くせば尽くすほどウソっぽい。どんどんウソになってく。
            こういうのはいけない。素直さもユーモアも足りない。ツマラナイ。

            そもそもこういう大いなるものの手前、ニンゲンたちはコソコソと歩くしかない。コソコソとした文を書いて、偉そうに写真を撮るのだけれどもどうもうまくいかない。いや、それは自分だけかもしれないな。

            森を歩くケモノたちのように、あるいは森そのものになれたらと何度も思う。見るだけ。聴くだけ。歩くだけ。文字も写真も残さない。足の裏にひづめがあれば、肌に苔が生えれば。

            もちろん、他にもいくらでも見るべきものはある。

            たとえば、岩。花崗岩は長年”水”に削られおしなべて丸く、割れる時はすっぱりときれいな断面になる。
            あまりにもヘンなので、それぞれの形容にも力が入る。豆腐を切ったようだとか、モアイ像だとか、天文台だとか、しかめっ面をした丸鼻のおじさんみたいだとか。草木の茂る丘にそういう石があちこちにひょいひょい置かれてるので、モコモコの絨毯からにょきっと生えてきているようで面白い。

            植生にも注目する。

            亜熱帯の花が咲き、苔が土を埋め尽くし、標高を上げれば丈の短いヤクザサが地を覆う。

            北側の海から始まり、島のほぼ真ん中にあるいちばん高い場所を経て、南の斜面を駆け下り、ふたたび海へと至る道を歩いた。
            厳密ではないけど、いちおうシートゥーサミットの旅。

            そうすると、高度によってがらりと景色が変わることをよく理解できる。

            時には湿原。時には亜熱帯。時には北海道。時には東北。時にはアルプス。でも、どれでもない。目まぐるしく変化してゆく。

            「日本全域の植生が、この島の海岸線から山頂にかけて垂直分布している。日本の植生の縮図である」。

            いろいろな冊子にはそう書かれている。

            言うまでもなく、この地形と多量の水とが、独特の景観を生み出した。

            「海から頂へ」と歩いた人はみな、納得できるはず。

            そういう中を、島固有の小さなシカが闊歩し、時折大きな鳥が鳴き、野生の猿の群れがこちらを警戒する(顔は真っ赤っか)。

            ヤッホー!!

            いままでにこんな風景を歩いたことはなかった。

            どこを切り取っても名画。どこを歩いても楽園。

            水についても、書こう。

            こよなく愛する奥秩父との違いについて、観察しながら考えていた。

            決定的な違いは、その降水量。

            奥秩父は、生命の終わりや乾き涸れたさみしさ。歴史のべっとり貼り付いた小さな小さな道を行くもの。

            苔や立ち枯れた木々は黙って佇み、骨は陽に晒され、漂白され、そして音も無く乾く。終わる。

            (そういう場所を秋の暮れに1人で歩くとたまらなくいいものだ。)

            対称的に屋久島は、生命のざわめきやみずみずしさが勝っている場所。

            水はあちこちで注ぎ噴き出し、歩く人々や動植物たちを潤す。

            この山々は、世界一の多雨地帯に並ぶほどの降水量があるという。

            見晴らしのよい場所に立てばそのことがよくわかる。

            水と一体になった風は山の斜面にぶち当たり、あちこちで昇りたがり、そして雨になりたがっている。

            何度もその生き物のような姿を見た。

            なんて水の多い。なんて自由気まま。一分一秒、立ち止まることがない。油絵を何百と塗り重ねたような緑色。一つ一つの層が波立つ。
            歴史は張り付いているのではなく、いまそこに水滴となって漂っている。流れている。声を上げている。息をすれば肺の中に満ちる。
            その中を歩き抜くと、全身がびっしょり濡れている。

            たぶん、夢を見ていた。夢を見る島。

            あまりに物事のスケールが大きすぎて、そういう風にしか認識できない。巨大すぎる。

            このずいぶん奇妙で大きな存在はおよそ掴みきれず、また描き切れない。

            雨降る豊かな島は確かにそこにあったが、どうにもニンゲンの手には余る。そういう手の小ささは愛しいとも思う。ときどき畏怖のようなものを抱き、圧倒されるにはちょうどいいのかもしれない。

            繰り返すようだけれども、

            どこを切り取っても名画、どこを歩いても楽園。





             

            風の吹き込む口、吹き出る口

            2013.10.05 Saturday

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              Super-cell
              "Super-cell"



              ちょっと、気取った話。

              風は、入り口が大きく、出口が小さいほどに吹き出すときに強まるという性質がある。

              もしもぼくという人間の中身が空っぽであるならば、それはそれで利用すべきだ。

              できるだけ大きく入り口を開けておく。そして風の出口を小さく作る。

              明確に、恐れず、しかし力むことなく、

              その風の向かうべき方向を見定め、出口となる穴の径をしぼる。

              そこへ向けて、風は強く吹き抜ける。


              8月末の気象予報士の試験に際して、

              ぼくはその性質を利用した(のだと思っている)。


              今回の試験までの日々、ぼくはじぶんの無力さを痛感させられた。

              どうすれば「力」を身に付け、そして発揮できるものか。

              試験が近づくほどに恐怖し、あまりの理解の足りなさに舌打ちし、袋小路のようになってゆく。

              でも思い出したほうがいい。

              さまざまな人が記したいくつもの本の1文から、尊敬するべき人の一言から、

              そして空を流れる雲の切れ端から、

              ぼくはかろうじて学び続けることができたのだ。

              いまもし「力」があるのならば、それは明らかにじぶんのものではない。

              (そうして学ぶときに、ぼくの入り口はどうなっていただろう?)

              (目はきらきらと光り、耳は、ダンボのような大きくなっていたはずだ、きっと。)




              試験当日の朝、その1日をいままで出会った色んなものへの感謝の日にしようという心もちに。

              4コマある試験すべての最初と最後に、一礼をして取り組むことにした。

              傲慢さをできるだけ捨て置き、誠実に、まごころを込めて、一問ずつ解く。

              ぼくの持つペンが紙に記すのは、ぼく以外の人たちの筆跡。

              地図上に示された予想進路図は、かつて誰かが死にものぐるいで見つけ出した、

              貴重な学識の蓄積されたもの。

              ぼくがするべきことは、風の入り口を大きく開き、出口だけをしっかり見定めること。

              さあ、もうすでに風は吹いて入り込んで来ている。あとは、どこへ流すかを決めるだけだ。

              ”もしもぼくという人間の中身が空っぽであるならば、それはそれで利用すべきだ”。



              うーん、文章にするといまいち怪しい。相変わらず観念的だ。

              でも、こういうことなんです。


              ともかく、目標としていた学科2科目をなんとかクリア。第一関門は突破できた。

              正式な通知も来たので、ご報告までに。






              花の名前を知る/渦の伝播性について

              2013.08.02 Friday

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                Shin
                "Shin"


                Yuuuuki

                "Yuuuuki"

                「あの花の名前は?」


                この言葉は、他者がいなければ成り立ちはしない。

                とても重要な問いかけだ。

                意味深い問いかけだ。

                他者がいなければ、自由に名付け、自由に呼べばいい。

                あるいは、名前すらいらない。

                でも他者がいるかぎり、そういうわけにはいかない。

                ぼくは誰かに問いかける。

                こちらに向けてくれるであろう、真摯で誠実な応えを予期して。

                ぼくもそれに対し、全力で応えるだろう。

                あるいは、そうありたいと願う。



                =====================



                ある人のある小さな渦は、誰かに伝播する。

                茨城のり子の詩で、たしかそんな風なものがあったと覚えている。

                ぼくも、全面的に賛成する。



                多くの人が知っているだろう、有名な言葉がある。

                バタフライ効果。

                ある場所で蝶蝶の羽ばたきが起こしたごくごく小さな風が、

                やがて遠隔地に大きな気象現象を起こすかもしれない・・・そのたとえ話。

                確かに大げさだし非現実的ではあるけれども、比喩表現としてはとてもおもしろい。

                気象予報においてはそれは大げさとも言い切れないかもしれない。

                現在日本ではスーパーコンピューターを駆使することで、

                毎日の天気予報の基礎となる膨大な資料が作られている。

                これ、実はけっこうすごい。

                世界でもトップクラスの精度を誇る。

                人間もコンピューターも、本当に頑張ってくれてる。

                でも、どうしても天気予報は100%の適中には至らない。

                コンピューターの計算過程において、

                初期値のごくごく小さな誤差がその後大きな差異の要因になってしまうから。

                そしてその誤差を完全に除去することは、まず不可能。

                (完全予報は、ぼくたちが生きている間にはおそらく実現しない。)



                実際、それは人間同士でもおなじだ。おなじだと感じる。

                知れば知るほど、気象現象というものは人間そっくりだ。

                まるでミクロとマクロの入れ子構造のようだ。

                ある人間の中にはいくつもの波や渦があり、しかも一定ではない。

                気圧は日々変化し、それぞれの波や渦は

                小さな出来事が、それらの様相を鮮やかに変えていく。

                魂のあり方までも。

                すべてが予測通り、というわけにはいかない。


                そして、波や渦には伝播性がある。

                誰かが起こした小さな渦は、意識せずとも隣にいる誰かに伝播して、

                また違う波や渦が生まれる。

                興味ある人からでも、そうでない人からでも、伝播する。

                それが次々と発現してゆき連鎖し、遠くの誰かにいつしか伝播する。

                よいことも悪いことも起きる。

                テレコネクション、と気象用語を用いてひねりを効かせて比喩してもいいかもしれない。

                渦とは何か?

                渦を、魂にたとえよう。

                魂の伝播性。

                その伝播性を、ぼくはいまでは楽しんでいる。


                誰かが、ぼくに花の名前を尋ねる。

                (あるいは、ぼくが誰かに木の名前を訪ね、虫の鳴き声を教える。)

                ぼくや誰かはそれを介して小さな渦を出現させ、小さな渦を取り込む。

                渦同士が複雑な動きを見せる。流体の力学はカオスに充ちている。

                ぼくたち人間の心の部分というのは、未だに不思議な流体そのものなのだ。

                言うまでもなく、予想不可能。

                コンパスは役立たず、地図はときどきどこかへ飛んでしまう。


                次に、ぼくは誰に花の名前を尋ねるだろう?

                そのとき、いったいどれだけの数の名前を知っているだろう?

                その質問や答えは、どういう渦をお互いにもたらすものだろう?




                ….というようなことを、ある2回の山歩きの中で感じましたとさ。

                ある事情があって強制的に大勢のアカの他人と歩いたんだけれども、

                誰かと歩くって、けっこうオモシロイもんだな。

                オモシロイ。

                オモシロイことは、どんどん続けていきたい。



                「脊梁を超えてくる雲/白い森と体温低下/賑やかなのは子どもらの声」

                2013.04.12 Friday

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                  Seki-Un
                  "Seki-Un"

                  Et Mori_05
                  "Et-Mori 02"

                  Et Mori_02  
                  "Et-Mori05"


                  2月某日


                  輪的にはよくご存知であろう岩手県の紫波町に、1泊2日の強行日程で遊びに行く。

                  初日、夜行バスを降りて早朝の盛岡から紫波町へ。

                  そのままバスを乗り継いで、東根山(アズマネージュ)に登る。

                  初めて見たとき「これが岩手山?」と勘違いをしたほどの、

                  端正な形をした、なかなか印象深い山。

                  いつかは登ってみようと思っていたので、念願かなう。

                  時折足が膝まで雪に埋もれ予想よりも苦戦するが(やはり雪山は初心者なのだ)、

                  900m弱の山頂見晴し台に到達。一気に展望が広がる。

                  ダイナミックに冬の積雲が風に流れる。

                  西風だ。脊梁山脈の方から雲はやって来る。つまり日本海側は大雪。セオリー通り。

                  こじんまりとしているが、風景は本当に素晴らしい。

                  地元の人々に愛される山。良い山、というのはこういうのを言うんだ。

                  いろいろなことが胸に浮かぶ。

                  もちろん、下山後は登山口隣りの、ラ・フランス温泉へ。



                  夜は、友人宅にて。

                  暖炉用の薪割りをしたり(手斧の良い重さ)、

                  自家製チャーシューを夢中になって食べたりする(死ぬほどうまい)。

                  持参したマットの上に寝袋を敷いて寝る。まるで山小屋。

                  きちんと断熱されてない家なので、冷え込む。これも山小屋そっくり。



                  2日目。

                  「アカバヤシ探検隊」という現地の方が主催する、

                  「子どもが森でひたすら遊びまくる」ための月イチ開催の遊び場に参加する。

                  そもそもこれが来訪の目的だった。

                  子どもたちを含め、40人前後の大所帯。

                  季節に合わせて、大人も混ざって里山で存分に遊ぶに精を出すのだ。

                  これを痛快と呼ばずになんと言おうか。



                  午前中は、雪車(そり)遊び。

                  雪車で滑って雪まみれになるだなんて、いったい10何年ぶりになるのだろう。

                  山へ向かえば大人はすぐに登山だの、スキーとかスノーボードだの、

                  そんなことをやってしまうでしょう?

                  それも、きちんとした出来合いの道具を使ってしまう。

                  意味を見出し、掛け値をつけてしまう。

                  それは別にいいんだけれども、少しだけ窮屈に感じる時が無いわけじゃない。

                  肥料袋に段ボールを詰めただけのものや、あるいはただのタイヤ。

                  そういうもので山道の斜面を滑り落ちて楽しむだけの、ただの遊び。

                  ただの遊び、ただの歩き、ただの1日、・・・・。

                  ”そのもの”であり続けることは、実はとてもむずかしい。


                  やがて斜面にはコースが出来上がる。

                  みんなで何度も繰り返すから徐々にちゃんと圧雪されて、かなり小気味のよいことになる。

                  エクストリームなオプション・ルートを足していって、ちゃんと立派なゲレンデになる。

                  我先にと、好奇心の先立つ子も、身勝手な子も、臆病な子も、小生意気な子も、

                  つぎつぎと滑ってゆく。

                  口先ばかりの大人になってしまったぼくも、遠慮なく滑り落ちる。滑降、のちに停止。

                   

                  死体のふりしてふかふかした雪に仰向けに倒れ込む。

                  仰ぎ見るカラマツの木がすっと伸びていて、それが幹から風にゆらゆら揺れてる。

                  踊っているようにも見える。

                  ときどきあちこちの枝から雪が落ちて来る。冷たく痛い。顔がぐしゃぐしゃになる。

                  背中から少しずつ体温が取られていくけれども、まだしばらくはこのままでいる。

                  すっかり葉の落ちた白い木と木の隙間には沈黙しかない。

                  この無音もまた、味わいに来た。

                  懐かしい記憶がいくつか思い起こされる。つい最近のことも、小学生の頃のことも。

                  バラバラに分断されていたものをできるだけつなぎ止めておくように。

                  空白を、ときどき子どもらのにぎやかな声が埋める。

                  いちばん世界に響くのは、子どもらの歓声。

                  いちばんこの森を愛し、また愛され祝福されるのは、子どもらの特権。

                  よいことだね。


                  探検隊の午後は、子どもはだいたい雪車滑りの続きをしたり、雪合戦。

                  大人は知恵を総動員して、イグルー(雪洞)作り。

                  これは大成功。中はとても暖かく、定員は27人の立派な代物。

                  人間て、すごいな。




                  解散後は探検隊・大人の部(ヒッヒッヒ)。

                  すっかり冷えた身体をラーメンとちいさな温泉で温める。

                  田んぼを突っ切る道で、あまりにきれいな月明かりだけのドライブ。

                  ただし、危ないので15秒くらいだけ。

                  すごく明るい。ライトがいらない。雲が溶けるようになりながら丸く湧き立っている。

                  すごい。言葉が出ない。

                  気象についてしか頭にないじぶんは1人やたら興奮している。

                  「あの雲の名前は、なに?」

                  薄いグレーの夜景色の中で、ときどきのオレンジ色。人間の営みの色。

                  東京以西よりも遥かに厳しい寒さを生き延びる、ささやかな知恵を持った人々。

                  盛岡近辺でしばらく友人とお茶をしたあと(モスバーガー!!)、夜行バスで帰路へ。

                  珍しく行きも帰りもしっかりと眠れた。


                  書ききれないこともたくさん。

                  ぜんぶ、今でも昨日のことのように覚えている。

                  それって、けっこう大事なことだよね。





                  どちらも光

                  2013.02.22 Friday

                  0
                    Kami Sama Kakureta

                    "Kami Sama Kakureta"

                    naturvolk

                    "naturvolk"


                    Gendai

                    "Gendai"


                    Nearside

                    "Nearside"





                    「勇気が圧倒的に足りない。」

                    そういう風に思い始めて、もう何ヶ月になるだろうな。

                    そんなものだから、これは雪上訓練でもあるし、

                    あるいは、無謀と蛮勇と、勇気との境目を試すための小さな旅でもある。


                    ===========================



                    雪山低山を歩く。

                    2月中旬。3ヶ月ぶりのお山歩きだ。

                    「なにやっての?」とじぶんに冷めた笑い。



                    林道のカーブミラーに映る姿を見る。卑屈なツラをしてやがる。

                    たまんないな。なんだこれ。誰だよお前。

                    「できることなら、その頬を左右一発ずつ引っぱたいてやりたいね。」

                    …なんて鏡に向かってうそぶく。

                    (今でもちょっと同じことを考えてたりする。めちゃくちゃ卑屈だったから。)



                    登山道へ入って間もなく、お目当ての雪。

                    奥へ分け入るほどに、だんだんとパウダースノーになり、歩きにくくなる。

                    2時間ほども歩くと、ときどき膝下まで埋もれてしまう状態になった。

                    思ったよりもずいぶん積もっている。道は完全に消えている。

                    トレース(先行者の足跡)もあるけれど、道迷いの形跡が少々。

                    これは、ちょっと怖い。

                    初めて訪れた山道の先行きを、誰かの判断にゆだねてしまってもいいのだろうか?

                    もしこの先トレースが完全に間違った方向へ向かっているならば?

                    枝につけられた目印のピンク色のテープを何度も見失うような状況下で、

                    じぶん自身の判断を放棄してしまっていいのだろうか?



                    ふと立ち止まる。

                    歩き始めからも、今も、人はどこにもいない。

                    さっき途中でカモシカの仔を1頭見かけたのが、

                    数少ない濃厚な生き物の気配だった(こちらに気付き慌てて斜面を下っていった)。

                    こんなに音の無い山というのもある。ずいぶんと驚かされる。

                    色も、ほとんど無い。

                    風が粉状の雪をふわりと飛ばし、太陽光が反射してきらきらと。見惚れる。

                    単純に「きれいだ」と言ってしまえばいいのに、

                    ひねくれてそんな言葉は使ってやらない。

                    「そうか、神様がいないんだな」と思う。

                    以前にどこかで聞いた「雪が降ると神様はどこかへ隠れる」という表現は、たぶん、圧倒的に正しい。

                    どこへ消えたのだろう?



                    さて、どうするかを決めなきゃ。

                    5分ぐらい進んでは、辺りを見回し、歩けるかどうかを確認する。

                    「あそこの木立まで進んでみよう、地形を見て、そして考えてみよう。」

                    また5分ぐらい、進んでみる。雪深さは変わらない。

                    同じことを何度か繰り返す。

                    知らない道。

                    これは、撤退だな。



                    =============================



                    恐らくピークは目前。

                    いまの装備でどこまで行けるか、あるいは行くべきか。

                    前へ進むことは、無謀か、それとも勇気か。

                    引き返すのは、臆病風なのか、英断なのか。

                    右足の腸脛じん帯が痛みだしている(これが一番危ない)。

                    実験的に、あえてサポーターになるようなものを一切外してきたからだ。

                    もしくは調整不足か、不慣れな雪上歩行の問題か。



                    なにはともあれ、決断は下された。

                    元来た道を2回ほど心地よく転げながら下る。

                    悔しさは、特にない。

                    雪道を歩くことが最大の目的だったのだ。

                    今日は、これで十分。



                    ===========================



                    いま、気象学についてせっせとバカみたいに勉強している。

                    すべては雲を見ることから始まった。

                    昔から好きだった行為を、最初は少し突っ込んだところまで、やってみた。

                    十種雲形を知り、ことあるごとに雲を観察する。

                    雲の種類を覚えたら、今度はその成り立ちを突き詰めて知りたくなる。

                    とうとう”気象予報士の資格を取る!”なんて決意にまで。



                    テキストを手にし汗をかきながらの、とある世界の、とあるルールとの対峙。

                    先人たちが長い時間をかけて解き明かしたこの偶発的な存在についてのルールは、

                    なんとも触れているだけで心地よい。

                    そこでは風が数字になり、大気は円柱のようなスケールモデルとして表現される。

                    巨大な力と力との釣り合い、地球規模の大循環、気体分子の運動。

                    そして物理学がどれだけ強力なパワーを持つ学問であるかに、いつも舌を巻く。


                    風を生み出す原理や気圧の仕組みを数式とともに理解することは喜びであるし、

                    だけれどもそれらの真理と呼ぶべきものは、

                    夏の風を肌に感覚的に感じることの、1つも同じでない雲の群れを眺めることの、

                    その根っこにある静けさを少しも邪魔するものでもない。



                    さいきん、机に向かい、

                    いくぶん難解(...文系のじぶんにとっては)な数式の成り立ちを理解しようと格闘しながら、

                    光を感じているじぶんに気付いた。

                    「二足歩行の存在」として歩くことを強く意識しているときのような、

                    あのなんとも言えない低温ぎりぎりのマグマ、激しく熱いわけでもなくて冷たくもないマグマがある。

                    さみしくて空っぽで虚ろなもの、いつも心を埋め尽くすそういった類いとは全く別のなにかで満たされる。

                    恐ろしいほどの数の星を眺めているときにも、似ている。

                    木登りを果たした瞬間にもそっくり、なのかもしれない。

                    誰かの手を握るような温かさにも近い。

                    勇気のようなものまで溢れてくる。

                    なぜこんなにも胸が躍るのか。ちょっと意外。

                    光。

                    つい先日歩いた山に残る雪も、大陽の日差しに強く光っていた。

                    どれも光。

                    どちらも光。

                    光は道を示さないけれども、ときどき大きな景色を見せてくれる。

                    光あるうちは、まだずいぶん歩ける。






                    2013

                    2013.01.04 Friday

                    0
                       2013






























                      ・こんにちは。

                      ・ネンガジョー、webバージョン。

                      ・新年の抱負は、特にありません。

                      ・みなさまにとって良き1年でありますように。